たしかに
みがく

S57.1.1元旦祭
元旦祭を、無事に奉仕させて頂きました。
お祭りを奉仕させていただきながら、感じることでございますけれども皆おかげを
頂きたい、しかもブリブリしたおかげを頂きたい願いを誰しも持っておりますけれども
そうゆうことを思わせていただいております時に、ちょうど私の目の前を鯛の
お供えが二匹通っていって、小さい鯛でしたけれども私の心眼にはもう、ものすごい
大きな鯛でしかも目がギラギラと輝いておるところを私の心眼にいただいたんです。
私は思いましたんですけれども、お互いがおかげを受けたい、しかもブリブリとした
おかげを頂きたい.とゆうて正月はどこでも大きなブリを下げます.
あれは、そうゆう意味らしいんです.
けれどもそうゆうブリブリとしたおかげを頂くためには、どうしても、まず、いわゆる
目出度いの方が先でなければならん、と言うところです.
おかげを頂いたから目出度いのか、
自分の思うようになったから目出度いのか、
自分の願いが成就したから有難いのであり、めでたいのであると言うのではなく
そうゆうおかげの受けられる前に、私共の信心はどこまでもまず、受け物をつくれ
と言われるのですから、どんな場合であっても三代金光様が仰せられたと受けたまわりま
すが、信心は日に日にさらでございますと仰せられたということです.
又在る教会では、毎日まいにちがおめでとうございますである。
お参りすると親先生おめでとうございます。
親先生もおめでとう。信者どうしが毎日そうなんです。
内容はどうか知りませんけれども、いうならば私共の心がさらに更にいうならば
喜びが感じられる、どんな場合であってもおめでとうございますが言えれるような心の
状態をまず、先にひらかせて頂くということが先決であって、それにとものうてくるところの私はブリブリとしたおかげでなかなければならないと思います。
日勝り、月勝りのおかげをお互い頂いていや頂けれる信心にご縁を頂いているのでございますから、どうしてもそういう信心をいただかなければいけんのです。
今朝からのご理解にも金光大神が天地金乃神より受けた話を
いつまでも、尽きぬおかげを頂かれる話を話にして残しておくのだと、おかげを受けたら
神心となって人にそれを伝えていき、真の信心をさせるのが神へのお礼だと言う意味の
ご理解がございますね。
金光大神は、いわゆる尽きぬおかげを頂かれる道を教えておられるのです。
ご理解百節にもうかがえますように、めでためでたの若松様よ枝もさかえる葉もしげる
と、いうではないか。金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのだと仰せられる。
道を習おうとせず、行じようとせず、自分のものとしようとせずして只、めでたいおかげを頂きたい、めでたいめでたいおかげを頂きたいというても
よし、それはなるほどおかげは受けてまいりますけれど、つきぬおかげにはならんのです。
尽きぬおかげを話にして、残しておくのぞと仰せられる。
尽きぬおかげの頂けれる信心をいよいよ頂き、目指さなければならないためには、いよいよ和賀心を信心は日々の改まりが第一、本心の玉を磨くものぞやと教えてられておりますから、これは7年おみちの信心をさせて頂くものの願いでもあり、課題でもあったと思うのです。が、真の信心が頂きたいと言います。
本心の玉を磨く、たしかに磨いてもおる、改まってもおるようにありますけれども
いつの間にか又もとにもどっておるから、おかげもやはりどう胴回りだというのが私は
かく、金光教の信心を頂いてきた人たちの姿ではなかろうか。
金光大神は子孫繁盛、家繁盛でなりよる、子の代孫の代と繁盛していく道を教えると、教えられるのにその道を体得してなかった、いや体得しておったというのならば金光大神が
うそを教えておられたということになる。
私は今朝からお夢を頂いて、いつもよりか20分ばかり早く起していただいた。
ここで、楽長のおかげを頂いております田中、私のいとこにあたります。、
もう、今年が七十、私より七つ多いですから七十五でしょうか。
もうやがて八十です。
若々しい、元気な声が出るんですよね。
その、誰かがね。黒田節を稽古したり、黒田節という民謡がありますね。福岡の民謡です。
それをね稽古したり、そのじかたに田中さんにお願いして下さいというておるんです。
じかたというのは、唄をうたってくれとこういうわけなんです
それで目を覚めたんです。どうゆうことなのだろうかと私は思わせて頂いて、今日のご理解を頂いたら今、申します金光大神がつきぬおかげの頂かれる話を残しておくと仰せられる。
だから、尽きぬおかげを頂かれる話。私が合楽で合楽理念ということが叫ばれるようになりました。私だけかもしれません、さけんでいるのは。しかし皆さんも一緒にやっぱり叫んでもらわなければいけません。
商売をするなら合楽理念をもってするほかはない。
百姓をするなら合楽理念をもってするほかはない。
私は、ここ3,4日感じ取りますことは本当に信心は改まりが第一であるとか、本心の玉を
磨くものぞやとかいわれるから誰でも自分で汚そうとか、改まるまいまいと思うようなものはおるまいけれども改まりが出来ないでおる、磨かれんでおる。
それをね、本当に磨かせていただくあらたまらせて頂くと言う事は磨くとか改まるということにはそう心をおかなくても、いうならば本心の玉を磨く事は日々の改まりをさせていただくことは合楽理念をもってするほかはなしというふうに思いを皆さんに聞いて頂いております。
天地書附のしんであるところの和賀心.和らぎ賀こぶ心もやはり然りである。
おかげは和賀心にありと仰せられるなら和賀心になりたい,和賀心になりたい,今月今日ただいまを和賀心でいきたいと思うけれども中々和賀心になれない。
ところが、ね、本気で合楽理念の実験実証に取り組んでおる人達は楽しゅう,うれしゅう、
有難う,しかも愉快に、日々の生活ができてゆくようになっておられる。
いっぺんに儲けだした、いっぺんに借金払いができた、いっぺんにおかげになったと、
いうことじゃないです。例えば病人を抱えながらでも、いうならば借金におもいをしながらもさまざまな難儀を持ちながらもそこに神様を身近に感じれ
れるにちにち。いわゆる合楽理念に基ずかせて頂くことによってです。
これはもう、最近これも特に感じることですけれどもひじょうに合楽理念の実験実証に日日有難いものとして,日日の生活の中に頂いておられる方が大変増えてきた事でございます。有難い事です。
私は今朝からのお夢を頂いて,例えば田中さんのあの若々しい声。しかもマイクも無しに声いっぱいに響きわたるようなあの声量と申しますかね。
昨日の叙夜祭で田中さんが音頭を出して御祭を奉仕されます。ところが退下する時に誰かね、声のこうこまい人が中々立てにくい、ひきなおさん。
お祭り前やったらそのリズムにのってお祭りをさせて頂く仕えます。
ですから、言うならじかたが悪いから踊ろうと思うても踊られんということです。
田中さんの声がいうならば本当にお祭りを奉仕する先生方を引き回すようにして、お祭りをスム-ズに出来るほどしの声量というか声を持っておると言う事は、これは合楽理念の事だなと今朝から思わせてもらいました。
合楽理念をひとたび言うならば勉強して、それを日日の信心生活の上に合楽理念を以って
する他なしという信心がだんだん出来て参りましたらね、一切を引き回すだけの力をもっておるのが合楽理念だと思うのです
改まることも、磨く事も、和賀心になることも合楽理念をもってするほかはなしと言うのはそうしてだんだんおかげを頂いて合楽理念による、いうならば信心しよる、ありがとうなる、楽しゅうなる本当に日日のだんだんみやすうなってくる。今はある?????
合楽理念のそれこそ実験実証をもう七,八年も信心をつずけられているでしょうか
もう、それこそ何をしてても有難い。
先日も畑の草取りをやらせて頂いてもう畑の草じゃない、自分の心の中の雑草をとらせていただくような思いで嫁と二人で一生懸命一日草取りの御用をさせてもろうた。
終わった時にもう有難うしてありがとうしてこたえん。
そこには嫁を拝もうごたる。所がどっこいならこちらが拝んでも嫁ごが拝む気にならんなら拝みあいということにはならない。
合楽世界というのは拝みあいの世界です。ですからこういう心を嫁だけではない、家族中の者がいただけて本当に合掌して、お父さん、こんにちもご苦労様でしたとお礼の言えれる、拝み合いれる家庭が出来たらどん何か素晴らしい事であろうかというのであります。
そりゃ、心で修行がなった、子供がなった、その拝む相手も又拝み返してくれるような信心が広がっていってもう心で拝むのじゃない、本当にこう手を合わせておがめれる心の状態と言うものが素晴らしいと思うのです。
今朝から、行橋支部の方たちが朝のご祈念に皆でお礼参拝をしてきて参っておりました。
まあ、年頭のご挨拶にみえたのでございます。
支部長の堀内さんが、今朝からお夢を頂きました。どうゆうお夢を頂いたか。なかなか自由にこの絵筆がたつんですね。絵をかく・・・・。
色紙に梅に鶯の絵を書いておる所であった。ああ、これが今年の信心の焦点だなと思わせて頂きました。まさしくそうだろうな。
4,5日前に電話がかかってきた。親先生、今朝ご祈念中に神様からお言葉を頂いた。
どういうお言葉であったかというと、さるすべりの木に鶯がきて止まると頂いた。
さるすべりという木がありますね。こちょこちょの木。
猿でもやっぱりすべりおちるような木なんです。そのさるすべりに鶯が来て止まる、親先生どういうことでしょうか。さあ、それはどうゆうことだろうかとでんわを聞きながら思いよったら、神様からきちがいと頂いた。
ははあ、これはきちがいだなと思った。鶯がさるすべりの木に止まると言う事は、木を間違えた。これは何というても梅の木でなければいけない。しかも梅の花が咲いて、薫るような花がプーンととしてあたりに漂うようになると、何処からとも無しに鶯がやってくる。
というわけなんです。
皆さんもご承知のように中々の信心の天才とでも申しましょうかね、だけにやはり人から非難が多いのです。信心をあげんぼうけなければ誰でもまねはでけん。
本当に真似はでけん信心をいたします。
それこそどんな場合であってもこの人の場合は、有難いがでてくるから不思議なんです。
どんなに借金取りが来てもそれこそ鶯の声に聞こえるような、横着では無いけれども必ず払いますと言う。
もう、実意を込めて必ず払います。今日、只今は無いですけれども私が必ず責任をもって払いますからと、いうならば実意を以って断られた。
どんな場合であってもいうならば有難いという心になりたいと心が出来ておる信心が出来たのか、私には解りませんけれどもだけに人の信心がもうはがらしゅうしてこたえん。
私はいつもはがらしゅう思いますことは、合楽にお参りしてくると先にずっとお届けしておられる、もう皆がいっぱい待っておられる。
それこそ、もう長々とお届けしよなさるのを見るともやもやするという意味のことをいうのです。そんなことをくだくだと言わんで、それこそ有難うございますだけでおかげはいただける。自分自身が有難うなればおかげは頂かれる。
どうぞ、今日も有難うなれますようにと言えばそれでお届けがすむような・・・と自分は思っておられる。と、いうようにまあ天才的なね、きちがいということがね。
これは私が人からきちがいと言われるくらい、信心きちがいと言われるくらいな時代に
私は人間心を使うほうでしたから、本当に神様の御信心を頂いておるのにこうやっていつまでもおかげを頂ききらん、難儀がつずいておる。しかも人は私を信心きちがいのように言う。
その事を神様に申し上げたら神様から、お前が言うとうりお前はきちがいじゃとこういわれる。きちがいに間違いはない。
けれども、お前のきちがいはね、??をささげて歩くきちがいじゃない。
人間の心から神の心へちがっていっておる。和賀心????向こうていっておる様子を人はきちがいと言うのぞということを頂いた事があるんです。
これは甘木の初代が熱心に小倉にお参りをなさる。もうそれこそ熱心にお参りなされるから??????先生がある時後本部参拝をしたならば、今度金光様にお道の教師にならせて御とりたてを頂くようにとお願いをしろと言われた。
金光様にお願いを???・たら、金光様が親戚のものがね信心きちがいというようなことでは人が助かりませんとおっしゃった。
信心にいうなら稽古をする、信心にぼうけることだけではなくて只いうなら、人の信心きちがいというように、ただ熱心に信心しておるというだけではなくて??????向こうて進んでいっておるような信心にならなければ人は、助かりませんよと言う事でしょう。
私が頂いたこと、甘木の初代のこと、二つを合わせて頂くと堀内さんが頂いているのがわかるのです。
そこで欠けておるのが何かというと、信心辛抱の徳である。
あんたがね、おかげ頂いておるというてもあんたが慢心さえ出さんごとすればおかげ頂くよ。そのためにも私は申します。所が自分が気が付かんなりに慢心しておるということは、人がその仕方の無いお届けをぐたぐたしておんなさるとはがゆいごとある。
あれは一つの慢心です。
所が神様から今年の信心のいうなら目当てともなるものを今朝方からお夢に頂いて、自分が色紙に梅に鶯の絵を書いておる絵を頂いた。
親先生が言われるように、いよいよ信心辛抱の得を身に付けなければいけない。これはね、信心辛抱といってもおかげを拝んでいるから信心辛抱とは限らんのです。
信心辛抱とは絶対のもの、間違いの無いもの、いうなら本心の玉を磨くこと、改まる事、又は和賀心を焦点にしての信心。
只、辛抱力を作る。今朝からお話をした事でしたけども、ある教会の大変真面目、熱心な先生が御月界を死守座れた。そしてお参りが無いからいうなら食べるものも無くなって、とうとう餓死されたという先生があります。
餓死をされないにしても、あんなに真面目な辛抱強い先生のところでどうして人が助からんだろうかと言うような例はいくらもあります。
だから辛抱のね、いうならばもう絶対のものが焦点でなかなければならないというか、そこで和賀心が絶対である、いうならば磨く事だ、改まる事だということで一生懸命やってみるけれどもなかなか磨けない。磨いても磨いてもそれこそ????つまれば又、何とかの錆が出るというような事になってしまって一生を終わっていくという。
??????をね、今日は頂きますように金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話しにしておくということにはならんのです。
そうね、私は頂きた、解らせていただいたということが私は合楽理念だとおもいます。
合楽理念は前代見聞だと、先だって御本部からお参りしてきたある先生が先だっても報徳祭のお説教をビデオで見せてもらいましてからね。
本当に、先生あなたが言いなさるとうりですばい。
ここに教団全すべてが気が付かなければいけません。いや、教団ぜんだけではない、その全類が、ここにきずかせて頂かなければならないということは私はお説教の中に怒られるかもしれないけど、皆がお釈迦様やらキリストさまを絶対の者のようにおもうておる、決して悪人とか悪い人ではないんです。
けれども、あれが絶対ではないと言う事。と言うような事をお話しました。
確かにそうです。合楽理念を頂いておると、いうならばあらゆる、さまざまな宗教が在るけれども十全で無い。
どこにか人間万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと仰せられるのに
万物の霊長であるところ人間の信心には、どこか劣るところが、欠けているところがあるというのである。道理に合わない。
所が教祖の神様が御教えを合楽理念によって頂くと、ははぁこれを十全の信心というのだなと言う事がわかってくる。足ろうてくる。
人間がいうなら、人間らしゅう生きながら万物の霊長としてのその霊徳をいよいよ輝かしていけれる手立てが合楽理念である。
しかもね、合楽理念をあれもこれもじゃない喩え一言なりでもそれに徹して行じていくならば喩えいうならば、天の心であり地の心であり日月の心でありそれを砕いていうと、成り行きを大事にすると成り行きを尊ばせていくという生き方を土の心で受けぬかせてもらうということを、それを本気で行じさせて頂いておりましたら5年経ち6年7年8年10年と経つならばたしかに我ながらわがこころが奉れれるようになるということでございます。そしてもう必ずや日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられるということであります。それをなら合楽では私を中心にして信心を進めていって、それを実証しておるのが合楽のこの御比礼なのです。けさから朝の御祈念に御結界につかせていただきましたらそこに便箋に何か書いてありますもん。薄かペンで書いてあるからわからんから虫眼鏡でこうやって見ましたら、四、五年間の一年間の参拝者のお届け数が年々増えていっておる。それを何年間かずっとうなぎのぼりにおかげを頂いております。それをみますと去年は54万じゃたかな、53万、去年よりも6万、去年よりも6万増えております。これが毎年毎年そうなんです。だから私は教祖様の御教えを頂いて行じてもうこんなにもまちがいがないということを皆さんに聞いていただいておるのですから、私は昨日からおとといから昨日にかけて年末のお礼にたまにしか参ってこんかった人が多かったですけどもお礼参拝してまいります。もうこれはみんなが同じことをいうのは「本当におかげばかり頂いて頂いて」ということです。信心も出来ませんのにおかげばかり頂いて・・ほんなことの・・私はそれを聞きながらね、ほんなこて信心も出来んのにおかげ頂くなあと思ったんです。昨日面白い方が電話をかけてきて「今年はあなたおかげ頂いてこうでしたから、来年もどうぞおかげを頂けますごとどうぞよろしくお願いいたします」、「はいはい承知致しました、毎度ありがとうございます」といわにゃあおれんようなそういう調子なんです。参ってきたこと無いとですから。だから誰か参よらしっるひとにお初穂ことずける程度のことですけどもおかげ頂いている。ですからここを知らないし私を知らないからもうざあっと思うとるわけですね。友達か私がどうというわけじゃないばってん、まあとにかく何か自分のお得意さんのごと思うとる。だからこちらも「毎度有難うございます」といわにやあごたる感じなんです。そいでもやっぱりおかげを受けておるということ。特別参ってくると段々合楽のことがわかって、教えをこう頂きよるのに教えを行じもせんのにこうおかげを頂いてというのが、昨日おとといから昨日にかけてのご参拝の多かったお礼参拝の弁でありました皆さんの。ですからね、そのおかげを頂いてということではなくてです、信心も出来ませんのにこれが力でしょうかこれが信心をすれば1年1年位がつくもんじゃとおっしゃる位とでもいうのであろうかというじっかんが,いただけるような感じれれるような信心、それは自分でなかなければ分らない。
このぐらいなことで腹がたちよった、心配なよった、もうこの位な事が苦になってたまらなかったのが今年の私の心というものはそれが全然問題では無い。
いや、むしろお礼が言えれるような状態になっておる時に気がついたとき、我ながらああ、信心ちゃ有難いもんだな、このように変われるもんだろうかと思うてわが心に合掌できるときなんです。
信心も出来ませんのにいうならあれもこれもということではございませんですけれども、立った一言だけでも御教えを生活の上に頂き現させて頂いておりましたら、こんねんもこういうまあ、力とでも申しましょうかまあ、これが積もり積もってお徳にもなるものだろうかと思えれるような信心を頂いて頂きたいと思うんです。
合楽のご理解はそれこそ田中さんの歌声ではないけれどもね、本気でその黒田節なら黒田節を稽古しようと思う人なら絶対、いうなら歌のほうがひきまわしてくれる。
だから本気で合楽理念で基ずく生き方をさせて頂こう、稽古させて頂こうという気になったら合楽で説かれておる話はそれこそね、引き回す力をもっておるんだ、しかもその力は今までかってあらゆる宗教者が説くことが出来なかった、それこそ前代未聞の。
開闢以来といわれるそれこそ宗教以前の宗教としか思えない合楽の信心。
もしーーーーーー金光大神の信心。
それをね、いうなら金光大神が天地金乃神より受けられた限りないおかげの頂けれる話を残しておくというその話があまりにも漠然として、はっきり教えてある。
磨くこと、改まることのもうおかげはわが心にあるんだぞと教えてあるけれども中々わが心になれなかったというのが私は、本気で求めても分らなかったと言うことになってくるのじゃないだろうかと、こう思う。
真、まことといわれるから本気でなら真にもならせて頂こうと思うけれどもその真が、分っていなかった。
本当の真が分ったときに本当の真のおかげがこれに伴のうてくるというのでなければ。
合楽の場合はもう、これは影も形もこちらの心が進めば進んだだけ,ね、影のほうがこれに寄りそうてくるということ、それを話だけではない合楽では私自身が実証させてもらい合楽で本気で傾倒していかれる方達が、日日をうれしゅう楽しく有難う、それこそ我とわが心が拝めれるような心、こういう心を主人にも嫁にも子供達にも分ってもらえたらという祈り、願いをもって信心の稽古をさして頂いておる.
今日のご理解の中にもあるように、わが身におかげを頂いてそれを人に伝えていくのが神へのお礼ぞと教えられますように、自分の心の中にそういう有難い心がひらけてくるとき、その心をです、人に伝えずにはおられない。
皆さんもご承知でしょうが久留米から石田先生というお医者さんがご夫婦で一生懸命お参りになられて、もうとにかく心が、もうとにかく、有難くなっていかれる。
昨日おとといでしたか、正月で子供達がみんな参っておりますので今日はどうでもひとつ合楽理念を子供達にもみんな、ね、分らせて頂くいわばお話し会をさせて頂きたいと思う。
どうぞよろしく、もうとにかく親、両親が助かっていっとる様子を子供達にも只見ただけでは呆然、はあ、親どんが金光様にぼうけてしもうちからというふうに思うておる子供もおる感じですよ。
けれども本当にこういう有難くなっていけれる、しかもいうならば、あーね、まあ、ああお医者さんのことですからいろんな勉強もなさっておられることでしょう。
そして、なら私のまあつたないお話を聞いて下さってこれは本当のものだぞと、これは本当に親先生が言うように前代未聞の教えだぞといったようなことがわかってこられたのではなかろうか。
だからこれを、子にも孫にも伝えずにはおけないというやむにやまれんものが、ねえ、生まれてきたんだと思います。
とにかく、人に伝えずにはおれない。それが神へのお礼ぞと仰せられるのですから、まずは一家中の者がです、ね、親、子が夫婦が拝みあいれる、本当の意味で拝みあいれる、こっちが拝んだら向こうからも拝み返してくれるような、ねえ、こっちばかり・・・・・・
あんた、もう、金光様にぼうけてしもうちからというようならどんこんされん。
ねえ、だからぼうけただけじゃあいかんから、きちがいにならなけりゃあいかん。
心が変わっていかにゃあいかん。気がちごうていかにゃいけん。しかも神に向かってちごうといくというおかげをいただかにゃあならん。
皆さんもねえ、今年はどうでん、こうでんいっちょうぶりぶりとしたおかげを頂きたい、と、思われる方が多いのではないでしょうか。ねえ、だから縁起の良いことを演出してからでも、まあ、演技を作っていかれたい。ねえ、それこそ元旦のみるもの・・・富士の山で、それこそ軸もめでたい軸をかける。お花もめでたい花をいける。というようにしてです、やはりそのめでたくなりたいという教祖様もそこのところを、ねえ、日が暮れたら大晦日と思い夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば家庭に不和は無いと仰せられる。ところが中々元日の心になれない。
それを、なら、合楽理念にもとずいて本気でひとつそのことに取り組まれたら、ははあ、にちにちが元旦の心とはこういう心だなあ、と、ゆうような心が開けてきたら信心が楽しゅうなる。
そういう信心を頂いていただきたい。
これは、いうならばみんな合楽でおかげを頂いておられる、いわば、実証者がたくさんあるのですから、ねえ、その、いうならば、ああ、一つのまあ、見本のようなものが合楽であります。去年と今年というたらもちろん、参拝数がそんだけ増えたということではないでしょうけれども、ねえ、たしかに、合楽に信心なさる方達が信心の喜びと楽しみをわかりだしてきた。
だから、いままで月一辺じゃったのが二辺になり、二辺じゃったのが、ああ、月次祭たんびに参るようになり月次祭たんびに参りよったものが、日参せずにはおれん、朝参りせずにはおれないというなってきておるということも、ふれていっておるあたくしは、数字の上に表われておるのもそういうこともあると思うのです。
もちろん、新たな御信者が増えておるということももちろんです。
皆さん方の信心がね、育っていくということは、ね、そういう意味でね、育っていくおかげを頂いていただきたいと思います。
今年は合楽教会にとりましてはいよいよ、15年という記念のお祭りをさせて頂く事になっておりますから、これは10月16日に誰が頑張らんでもどうせんでも確かに記念祭は盛大におこなわれることでしょう。けれどもね、あたくしは昨日の前夜祭に申しましたことですけど最近合楽で云われる、それぞれ合楽の信者、信奉者としての責任においての信心であり御用をということを申しております。
楽人なんかは、たとえばもちろん忙しかろうけれどもみんな、楽人としての責任があるから人より30分、1時間早くきておる。
総代さん方はやっぱり玉串をあげんならんから、昨日もやっぱし忙しかったろうけれどもみんなやっぱし揃うて参って来ておる。
だから信者のひとりひとりがです、ね、自分の一人お参りしなかったら合楽のごひれいにかかわるんだというくらいの気持ちでです、ね、合楽の信奉者である責任においての信心が御用ができるようにならせて頂くならば、そういう願いをもって記念祭をねごうていくならば、いよいよ盛大な記念祭が仕えられるだけでなくて記念祭を境に、皆さんの所にもあたくしは有難いおかげの芽が出ると思います。
今日も、うーん、御直会を頂きます時にいつも共励殿でしたけれども今年は新館でした。
もうあそこに入りきらん。
新館いっぱい、しかもみんな一人ひとりが子供を抱っこしてきたんです。
そいで子供はみなおとなしゅうしとるから、上の者高いとこずらっと並べて寝せちゃる。もう、私は一人ひとりこうみよってから胸がいっぱいになるようにあった。
もう、みんな良い子です。そりゃ我がもん宝じゃないけれどみんな器量がいいです。
男らしいです。ええ、この人たちがまた次の時代をにのうていく、もう本当に今朝から頂くように、今朝から、ああ、仙涯さんのポスターの表紙を頂いたんです。
その表紙にはおめでとうと、書いてある。
そのおめでとうというのは、芽が出ると書いておめでとうとよませてあるんです。
だからおめでたいということはね、芽がでるという事なんです。
ね、15年の記念祭を境にここから、あの、布教に出る先生方もあるでしょう。
んならば、それぞれがあの子供に恵まれてこりやもう芽が出たんです。
合楽の御ひれいです。
再来年はいよいよ教祖100年祭でございます。
毎朝総代さん方が今度近くで合楽から1000人参りを企画しております。
ねえ、もう30年も前にいわゆる難儀魂魄の時に神様は一線上にずらっと並んでおる人たちの様子を御心眼に頂いて、ね、これから100年祭をめざして、ええ、いうならばこれから走り出す、いうなら、選手達だというその中にあたくしがあるということを頂いたんです。
その時分にとても、その、日本一をめざすなんてん・・・・・・思えないことでしたけれども、今のもようでまいりますならこりゃ日本一もむずかしゅうはないというふうに、思うのです。
日本一ということは、本当に日本一ということは本当に人が助かる意味に於いての日本一なんです。
今度の教祖大祭に奥城に座ったとたんに神様から頂きましたのは、丁度お芝居の時の大向こうから声がかかるような感じで「世界」と頂いたんです。
もう、それこそ自分の目を疑うようにびっくりしました。
大坪総一郎、お前が世界一と言われているのではなくて、いま合楽で説かれておるところの合楽理念はそれこそ前代未聞のものである、人間が人間らしゅう、誰でも助かっていくことのできれる助かりの理念であるということ。
そういう意味でも、あたしは世界一であると思います。
いうならば、ねえ、合楽から1000人参りがたとえば出来ましてもお参りの数がおいては、まだ、大阪あたりには大きな何千人も参られる所がありましょうけれども、ねえ、もし合楽から1000人参りが出来るのだったら、信心の上で、もう、こりゃたしかに日本一のおかげが頂けるのだというふうに思います。
みなさん祈って下さい。願ってください。ええ。
ただ、なら、お参りできさえすれば良い、10円の金子が出来さえすればよいではなくて
ねえ、それを目当てにあたくしどもの信心もまた育っていかなきゃあならないということです。
だから信心が育っていくということは、なら、改まることだ磨くことだ、ねえ、いわゆる自分の心の中にわが心が頂けることなんだということですけれども、なかなかにあの手この手もつこうてみて、なかなか出来なかったけれども、ねえ、いよいよ合楽理念をもってするならば、こりゃいつの間にか期せずして改まっておる自分に気がつく。
期せずして自分が、ねえ、磨かれておるものを心に光を感ずる。
ははあ、こういう心がわが心だなと、わが心になろうとも思わんでもなれるような仕組みになっておるのが合楽理念です。
ですからそういう信心を身につけていくのも合楽理念による他なしという、いえれるくらいな合楽理念をいよいよ今年は皆さん、身につけて、頂き、いうなら15年の記念祭も再来年の100年祭の教祖100年祭にも向かわして頂きたいと思うておりますから、どうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ、ぶりぶりとしたおかげを頂いてほしい、ためには、まず、めでたいあなた方に一人ひとりがならして頂く精進をして頂きたい。どうぞ









ただ、なら、お参りできさいすればいい





 










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